昭和48年 7月18日 朝の御理解
x御理解第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな」
「神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげ」とおっしゃっとられます。「尽きぬおかげを話にしておくのぞ」とあります。尽きぬおかげとは、お徳を受けることだと思いますね。お徳を受けることが尽きぬおかげの頂ける信心だということ。教祖様の教えて下さることはすべて、信心して身に徳を受けるお話を残しておって下さるということになるのです。
ここはもう六十一節は、一つ一つ箇条書きにして見た方が良いような感じがしますね。皆どこも大事なとこばっかりです。
今申しましたところは、いつまでも尽きぬおかげを、言うなら、限りないおかげに、先日から身しのぎの信心ということを頂きましたね、言わば、願わんでんおかげの頂けれるような信心、これはやはり身しのぎの徳です。だからそれを段々、いよいよお徳たらしめるためには、信心の喜びということが大事だということ、身しのぎの徳を。
昨夜、合楽会でそのことを話したのですけれども、それぞれに、こういうのが身しのぎの徳というのじゃろうかというふうに、合楽に御神縁頂いとる方達は受けておるのだけれども、そのおかげを有難いと頂ききらずに、まだおかげが頂き足らんごたる、いわゆる、おかげ信心に自分がしてしまっておるということ。だからもう、おかげ信心にしたらそれでおしまい。尽きぬおかげということになって来ない。
本当に、今日こうしてお生かしのおかげを頂いて、とやこう衣食住の上にもおかげを頂いておるということを、もう心からお礼を申し上げておけば、明日のおかげは、もう神様が準備しとって下さるのですけれども、明日のことが不安であったり、心配であったり、言わばギリギリであったこと。ようやく集金が寄ったと思うたら、もう払うてしまわにゃならんといったごたるふうな頂き方では、いつまでたってもおかげにはならん。
本当に、今日払わせて頂く金があったということが有難いじゃないか。それを、ようやく今日集金して来たのをもう出してしまわにゃならん、こういう中には絶対お徳は育たんです。本当に神様は前から見通しのように、集金があったら、もうちゃんと払うところがあった。神様が前もってお繰り合せを頂いとるというような頂き方。
昨日も丁度、朝の御祈念の後に、田主丸から山口さんが参ってきた。丁度停電がありました。今まで後でまいよった扇風機が止まったから、あらと思うたら停電であった。時に私の心の中に、一番目に浮かんで来るのは、「ああ、今まで、黙って風を送ってもらっておった」ということであった。「今、どうして止まったじゃろうか、どうか…。どうなっとんの」と言うのじゃなくてですね、今まで風を送ってもらっておったということが有難かった。その次ですよ、どうして消えたじゃろうかというのは、だから、一番はじめには、「おかげ」とこう頂ける心が有難い心、これが限りないおかげにつながってゆく、「どうして消えたんじゃろうか、んにゃようと考えてみると、日頃、お礼の足らんとじゃん」と分かったんじゃいかん。
お礼の心が先に出る。
今日も成程、その日暮しではあったけれども、一遍だって食べんだったということもない、ちゃんとお繰合わせを下さることが有難いと。というような頂き方が、金光大神にいつまでも尽きぬおかげの頂けれる話とは、そういうことだと思う。ですから、そういう有難いというものが、言うなら、ほとばしっておる。毎日毎日それをよそを見る。これではおかげは頂けない。
私は甘木の先生のお話を頂いた時に、いっぺん、そんな話がありました。
遠足がある、お母さんは日傭取りか何かに行っとって、もう休まれんのだけれども、今日は子供の遠足だからと思うて休んで、日頃はとても、ちくわ、かまぼこ、てんなんてんは、もう買いもせんのだけれども、今日はひとつきばってから、かまぼこどん買うち。そうしてまあ、おにぎりじゃあるけれども、昔のことですから、ちくわ、かまぼこといえば珍しい、ぜいたくな品物という時分のことです。
そして運動会(遠足…)見に行った。いよいよ昼、昼食になったら子供の…、さあ御飯頂こう。そしたら子供が、隣近所でお弁当ひらいてあるのを見てから、「お母さんあそこは卵ばもって来ちゃるばい。あそこは肉やら魚を持って来ちゃる」と言うたら、もう折角無い中から、例えば親がね、せめて今日は、ちくわなっとん、かまぼこなりとんと思うて買うて来とるとに、それこそがっかりする。
そういう生き方の信心では駄目だと教えておられる。
信心しよってじゃなかばってん、あそこは健康。信心しよってじゃなかばってん、あそこはどんどん儲けだしござる。大体神様はち、神様まで疑うごとなる。
これではおかげに、徳にはなりませんね。もう信心しとるおかげでという、そのおかげというものはです、もうどんな場合でも、有難いというものが先に出るような心の状態にならして頂けれるようなお話を、いつも頂いておるということ。
お互い、よその卵やら、よその天ぷらやらばかり目につくようではね、私は、今日六十一節の、今から箇条書きにでもお話するところが頂けない。いわゆる、次の、「信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしていく」ことができんのです。おかげと実感していないんだもの。
日頃は、お漬物やら、梅干しやら、らっきょやらばっかりお弁当持って行く時、「今日はお母さん、ちくわも買うて来た。やあ、今日はかまぼこもあるの」と言うて喜んだら、それこそ出来る一杯のことを親はしてやっとるとですよ。
神様でもそうです。氏子の信心、それ一杯のおかげは下さってあるのです。百円のその日暮し、その日暮しが出来るのが有難いのに、いつまでも百円のその日暮し、よそあたりは三百円、三百円のその日暮しをしござる。というのが目につくようでは、いわゆるそれをね、「信心しておかげを受けたら神心となりて、丁寧に話して行くこと」すらが出来んです。「どう考えても、私どん位なことで、こげんおかげを頂いて、日々のおかげを頂いて行く具合というものが、何とも言えん有難いことですよ」と話していけるですよ。自分がおかげを実感したら。
それを金光様の信心しよって、まちっとおかげを頂かにゃ、人ばお導きは出来ん。自分がおかげ頂かにゃ人にお話は出来ん。そのおかげは夢のごたるおかげばっかりと思うとる。それではおかげにならん。現在頂いとるおかげが、何ともかとも言えんおかげと感じれれる信心を頂かなければ、人に丁寧に話をして行くことが出来ん。
そこんところも大事。
次には、それがね、そういう生き方が自分自身真の道を踏んで行くんだということ。これが三つ目、言わば、今日的おかげであってもです、それは最小限度の、まあ言うなら贅沢は出来なかった。けれども、神様がいろんな意味でおかげを下さっておるということ。
その日暮しが出来たということが有難い。
それを本当に、有難いと実感したら、そういうおかげがです、本当に信心ちゃ有難いということをです、思わずあふれるようなものになってくるもの、その時点時点で。それをいつになったらおかげが頂けるじゃろうか、いつになったら、言うなら、食べるとに不自由せんごと、お金に不自由せんごたるおかげになるじゃろうか。日々不自由しよらんじゃないか、それにそういう思い方をしたのでは、人に丁寧に話してゆく実感というものが第一ないです。
思うて見ると、私ども修行中の時分に、本当に話を聞いて下さった方達の皆が、有難い有難いと言うて、言うなら、歓喜の涙を流して聞いて下さりよった。もう実感ですから。もう本当に、今私の財布に金は入っておりません。けれどもこれが私の今までの体験から言うと、いよいよ要る時には必ずこれにはついてくるですけんねと言うて話ができた。今日食べる。「今晩食べてしもうたら、お父さん明日食べるとが無いですよ」と言うて、そりゃどうするか困ったね、隣から米一升借りて来とけと言うたことがなかった。
「今日頂けたことが有難いじゃないか、明日は明日、明日はもうお任せぞ」と言うて寝ませて頂くけん、寝むれんちゅうこともなか。
明日のことが心配でもなか。そしてそこに頂ける体験が、例えばよそから、いつも私がお話します。「残り物のおにきりが余ったけん」と言って、沢山の。そのことが有難うして有難うして、おかげ話に話さなければおられなかった。「神様ちゃ間違いないです」よちゅうてお話さしてもらいよった。
それに、いつになったならばこう、というものが一つもない。毎日毎日米櫃は空であっても良い、翌る日にそれだけまた入ってくれば良いじゃないか。今財布は空でも、要る時には入ってくれば良いじゃないか、そういうところにです、ほんにいつになったならば借金払いが出来てしまうじゃろうか、いつになったら健康になるじゃろうか、もう健康じゃなかったっちゃ現在おかげば。
例えば久富勇さんが毎日ここへお届けをなさいます。ああいう今不自由の体でありますけれども、言われることが、「今日も健康のおかげを頂いて有難うございます」というのがお届けの一番です。
勇さんのお礼のお言葉を、他から見たら健康じゃないけれども、 「今日もお生かしのおかげを頂いて有難うございます」という意味だろうと思うんです。
ですから、それを本当に実感として感じておるならばです、それが人に丁寧に話さなければおられんことになって来るです。そういう生き方を、真の道を踏んで行っているということになるんですよ。
真の道を踏むということは、そういうことなんです。これが箇条書きで言うなら三つのところ。
「金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ」と、ここでまた一箇条出来た。
神様にお礼も出来ん、お礼も出来んと言うとるけれども、神様が一番喜んでお礼として、喜んで受けて下さるのはです、難儀な氏子が取次ぎ助けられて行くということ。次々と。お金はあったっちゃ、物はあったっちゃ、不平不満で過ごしとる氏子がある。なら病気、貧乏にあえいでおる人がある。自分のごと不幸せな者はあるまいと思うて毎日生活しとる人がある。
そういう人達がです、金光大神の教えを一度頂いたところからです、この頃の中山先生じゃないけれども、一番の不幸せ者が、一番の幸せ者と感じれれるような話を…。教えを頂く。これが一箇条になりますね。
神様の御礼とは、どうでも私どもの心の中にです、もうその日その日が有難うしてたまらん。こげん間違いのない働きの中にあるんだということを分からせて頂く信心にならなければ、人に伝えて真の信心をさせることはできない。それでは本当に神様喜んで下さるお礼になって来ない。
どうでしょうか、今申しました一箇条、一箇条をです、どれか一つでも本当に自分のものになってるかどうか、本気で思うて見なければいけません。しかもです、「神様への御礼ぞ」と言うなら人が、自分の一つの信心で。
昨日久留米の佐田さんが一緒に参加しとられましたが、中山先生のお話を頂いて一番痛感しましたことはです、私自身がお話は例え出来なくっても、私自身がおかげを頂いて、自分の周囲の人達が助かっていかれるおかげを頂くことを生甲斐としなければということであった。
自分がおかげを頂くということでなくてですね、自分の周囲の人達がです、一人でも多く助かって行って頂くということに、生甲斐を感じれれるような信心、もうそういう生き方が神になって行くのです。いわゆる一人助ければ一人の神になるわけです。一人が「あなたのおかげで助かった」と言えば、一人の神。五人「あんたのおかげで助かった」と言えば、五人の神。成程「それが神になるのぞ」と、ここでまた一箇条。
最後に「神になりても神より上になるとは思うな」と、これはもう大変意味の深いことで、ですからちょっと時間を要することだと思いますね。けれども、「神より上になるな」ということはね、何と言うたらよいでしょうか。神様を…、何と申しますか。人を顎の先で使うということを申しますね。神様をまるきり使用人のごと思う。そういう信心のことだと思いますね。
「神様ちょいと久留米まで行って来て下さい」「ちょいとどこに集金に行って来て下さい」ちゅうごたる感じです。そういう人が沢山あります、やはり。同時に、これはおかげを受ければ受ける程、これが本当の意味であればある程、いわゆる慢心を起こしてはならんという意味もあるでしょう。
そういう例えば六十一節を五箇条でしたかね。五箇条なら、五箇条に切ってみてです、どのところでも信心させて頂く者の大切なところばっかりを説いてございますね。ですから尽きぬおかげに触れたいと思うならです、今日、今日が有難いという心になれる。
どんなにでも、電気が消えたら、「あら、どうして消えたじゃろうか」じゃなくて、今まで電気の恩恵を改めて思うて、御礼を言うことを先にするような心の状態でなからなければ、それをおかげ心として、信心を頂いとる者がです、それを本当におかげと実感させて頂いたらです、その日暮しが出来ることを、人に話に伝えて行くことができる。そういう話を聞けば「ああ、信心ちゃ有難いものじゃなあ。尊いものじゃなあ」と思うでしょう。
けれども、そういう有難いものもなしにです、その日暮しの話をしよりゃ、「金光様の信心はその日暮しせにゃんの」ちゅう結果にしかならんですね。溢れるものがにじんでない、有難いというものが。
だからここんところが根本になるところ、そこから人にも伝えて行く。真の道も踏んで行く。神様への御礼も出来る。同時に神にもなって行けるというような道を、金光大神は、「いつまでも尽きぬおかげ」と言っておられます。尽きぬおかげということは、いわゆる、御神徳を頂くことだということを、今日は聞いて頂きました。
どうぞ。